はじめに ― なぜ歴史を学ぶのか

AI の記事やセミナーは「最新の技術紹介」や「実用事例紹介」が中心で、歴史を振り返ることは少ないかもしれません。
しかし、AI の歴史を知ることには三つの意味があります。

現在の位置を誤解しないため
　今の AI がどこまで来ているのか、そして何をまだ解決していないのかを理解するには、その歩みをたどる必要があります。
同じ失敗を繰り返さないため
　AI は何度も「ブーム」と「冬の時代」を経験しました。なぜ期待が高まり、なぜ失望に変わったのかを知れば、現代の医療応用で同じ轍を踏むリスクを減らせます。
医療応用の限界と可能性を見極めるため
　AI の歴史は「できること」と「できないこと」の切り分けの歴史でもあります。これは、診療や研究に AI を導入する際に最も役立つ視点です。

👉 つまり歴史は「昔話」ではなく、現在と未来の道しるべです。本稿では、その最初の一歩に焦点を当てます。

1. AI研究の大まかな流れ ― 見取り図

まず全体像を俯瞰してみましょう。

1950年代：誕生期
　チューリングが「機械は考えるか？」と問い、ダートマス会議で「人工知能」という名称が提案されました。
1960〜70年代：初期の盛り上がり
　パズルや定理証明、簡単な会話プログラムが登場し、「知能はもうすぐ再現できる」という楽観が広がりました。
1970〜80年代：冬の時代
　現実の複雑さを前に、限界が露呈。資金が引き上げられ、停滞期に入ります。
1990年代：再興
　機械学習や確率的手法の進展により、音声認識や翻訳で実用が進みました。
2010年代〜現在：ディープラーニングと大規模モデル
　画像認識・自然言語処理で大きなブレイクスルーが起き、AIは産業全体を巻き込む存在に。医療でも読影支援やカルテ解析が現実に使われています。

👉 今後の連載ではこの流れを順にたどっていきますが、今回の焦点は「出発点」です。AI が“学問”として立ち上がったきっかけ――チューリングの問いとダートマス会議を見ていきましょう。

2. チューリングの問い ― 「機械は考えるか？」

哲学論争から“観察可能な指標”へ

1940年代、数学者アラン・チューリングは「機械は考えるか？」という古典的な問いを前に、議論の不毛さを見抜きました。
「考えるとは何か」を定義しようとすると、答えは人によって異なり、いつまでも平行線です。そこで彼は、実用的に測れるテストを提案しました。

模倣ゲーム（チューリングテスト）

人間の審査員が、見えない相手とテキストでやりとりをします。
もしその相手が人間か機械かを十分に判別できなければ、その機械は「知的だと言って差し支えない」と考える。これが有名な模倣ゲーム（後にチューリングテストと呼ばれる）です。

ELIZAと「人工無脳」

このチューリングの発想は、後年の実際のプログラムで大きな誤解を生みました。1960年代に登場したELIZAは、ユーザーの言葉を言い換えたり型通りに返すだけの簡単なプログラムでした。
「私は疲れています」→「なぜ疲れているのですか？」と返す、といった具合です。

理解力はなく、単なるパターン操作に過ぎません。それでも多くの人が「理解している」と錯覚しました。こうした「実際には知能を持たないが、会話しているように見える仕組み」を人工無脳と呼びます。

👉 医療者にとっての含意は重要です。「人らしい応答＝正しい応答」ではないということ。言葉が滑らかでも、根拠や安全性が伴わなければ診療に使えない。この教訓は、現代の大規模言語モデルを考える際にも鮮烈に生きています。

3. ダートマス会議 ― AIが学問になった瞬間

1956年、アメリカ・ダートマス大学で開かれた夏の研究会議で、“Artificial Intelligence”という名前が初めて提案されました。ここが「AI」という学問の出発点とされます。

会議のテーマは壮大でした。

学習は計算で実現できるか
推論を論理で記述できるか
言語を理解する機械を作れるか

研究者たちは「知能は計算で記述できる」という前提のもとに集まり、実際にいくつかの試みを進めました。当時はコンピュータが急速に発展しており、「あと数十年で人間の知能に迫れる」という楽観が広がっていたのです。

4. 初期の成功と限界

ダートマス会議をきっかけに、多くの研究が生まれました。定理証明プログラム、チェスや将棋の初期 AI、簡単な会話システム。これらは話題を呼びましたが、やがて大きな限界が見えてきます。

知識獲得のボトルネック

人間は日常生活の中で膨大な常識を暗黙のうちに使っています。
「氷は火にかざせば溶ける」「雨が降れば地面は濡れる」といった知識は説明なしでも理解されます。

しかしコンピュータに同じことをやらせようとすると、「氷＝固体の水」「熱は氷を液体に変える」…と、一つひとつを明示的にルールとして与えなければなりません。
さらに例外や条件も加えれば、その知識量は膨大になります。

つまり、人間が直感で処理する常識を機械に網羅的に教えることは極めて困難であり、これが「知識獲得のボトルネック」と呼ばれる問題です。初期AIの限界を象徴しました。

資源制約の厳しさ

当時のコンピュータは、今のスマートフォン以下の性能でした。
画像を一枚処理するのに数時間、場合によっては一晩かかることも珍しくありませんでした。
理論的には可能でも「計算資源が不足して現実には動かない」ことが頻発したのです。

評価の誤解

ELIZA のような単純な会話プログラムでも、人は「まるで理解している」と錯覚しました。
しかし実際には理解はなく、単なる置き換えにすぎませんでした。

👉 「人らしく見える」ことと「正しく知っている」ことは別物です。これは今日の LLM を巡る議論にもそのまま当てはまります。

5. 医療にとっての教訓

この初期の歴史から、医療現場で AI を考える私たちが学べることは多いです。

評価軸を間違えないこと
　「人らしい」ことと「正しい」ことは違う。医療では正確性と安全性が最優先。
知識とデータのバランスを意識すること
　ガイドライン的な知識と、膨大な臨床データ。両方が必要です。
楽観と現実のギャップを自覚すること
　初期研究者の楽観は今も繰り返されています。「AIで医療が一気に変わる」という幻想に流されない視点が重要です。

まとめ

AI の歴史を学ぶ理由は、単なる昔話ではなく、現在と未来を理解するための地図を得ることにあります。
1950年代のチューリングとダートマス会議は、AI という学問の出発点であり、「機械は考えるか？」という問いを実用的に測ろうとした最初の試みでした。

ここで芽生えた限界――知識のボトルネック、資源制約、評価の誤解――は、その後の AI の発展と停滞を繰り返し形作ります。
そして現代の医療応用においてもなお、知識とデータ、説明可能性と性能、安全性と効率というバランスを考える姿勢が不可欠です。

次回は「AIブームと冬の時代」と題し、この出発点からどのように期待が膨らみ、そして失望へと変わっていったのかを辿ります。